1872年(明治5年)に日本で初めて鉄道が開業する際に造られた「高輪築堤」の遺構は、駅周辺の再開発工事の際に高輪ゲートウェイ駅の近くで見つかりました。
築堤とは線路を敷くために浅瀬に盛り土をして石垣で固めたものです。
高輪築堤は1870年着工で、現在の田町駅付近から品川駅付近の約2.7kmにわたって造られました。幅は約6.4mです。
その際、海を築堤で塞ぐと船の出入りができないと住民から嘆願され海岸と沖合の水路の確保のため橋梁が設けられました。
起点の新橋駅から数えて七つめに作られたのが「第七橋梁」で、保存されることになった部分です。
当時の錦絵には海上の築堤を走る蒸気機関車が描かれています。
つまり、明治の頃はこの辺りは海だったので鉄道が走るところだけ堤防みたいなのを造っててそこを走ってた、それが令和になって見つかったってことです。
これがどれくらいすごいことなのか、地図でいうとどの辺なのか、大隈重信とどう関係あるのか解説します。
高輪築堤は世界遺産になってもおかしくないレベル
高輪築堤は、2019年に品川駅改良工事の現場から石垣の一部が見つかり、2020年7月に高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発現場から第七橋梁を含めた大規模な遺構が発見されました。
この石垣の一部はわが国の歴史上、また世界的にも重要な近代化遺産です。
第七橋梁付近の石組みの遺構は、美しい石積みや弧を描く形状など魅力たっぷりで三代歌川広重の錦絵に描かれた築堤を想起させます。
実は明治末期から昭和初期にかけて埋め立て工事が行われたのでその時に撤去されたと考えられてました。
築堤は壊さずに埋められてしまったから、掘り返せば出てくるやん?って私たち素人は考えてしまいます。
しかし専門家からは「埋められたものが崩れずに残されていた」という意味で注目を集めています。
この遺構は世界的に見ても珍しい19世紀の海上鉄道遺構であることや、明治初期の産業遺産としても貴重であることから、保存へ向けた声が非常に大きくなりました。
史跡指定されるようですが、一部には世界遺産を期待する声もあります。
単独での世界遺産登録は難しいと思いますが、日本には「明治日本の産業革命遺産」という世界遺産があります。
この高輪築堤も「明治日本の産業革命遺産」の一部としてみれば世界遺産の仲間入りがあり得るかも知れませんよ。
高輪築堤の場所は地図のどの辺?
これまでに確認された遺構は山手線と京浜東北線が走っていた線路跡から計約1.3kmに及びます。
住所で言うと港区三田三丁目及び高輪二丁目になります。
高輪築堤の辺りをGoogleマップで徒歩経路として図示してみました。
場所はかつて山手線と京浜東北線が走っていた線路跡です。
日本初の鉄道路線として、明治5年9月12日(新暦では1872年10月14日)に新橋~横浜間で開通した区間です。
開業当時は海の浅瀬に作られ「海上を走る陸蒸気」として名物でした。
しかし後に沿岸地域の埋め立てや拡張工事の影響で埋められ現在に至ります。
高輪築堤は大隈重信が作った?
鉄道を敷設するにあたり、政府は周辺土地の買収を行っていました。
その強権的な買収に難航した地域が高輪だったのです。
西郷隆盛の旧薩摩藩の藩邸があり、兵部省の用地もあったので交渉の余地はなく、測量も工事も着手できませんでした。
そこで大隈重信が「海の上に鉄道を通せ」との鶴の一声で海上ルートになりました。
高輪築堤まとめ
こういう明治以降の建造物も残していこうという流れは好ましいですね。
新しい施設を作っていかねばなりませんから、もちろん全てを保存するというわけにはいきませんが、先人の知恵と努力の賜物に敬意を持つという気持ちは忘れたくないものですね。
海の上を蒸気機関車が走ってる様子も見てみたいです。